何年か前から、特に親しかったわけではなかった高校時代の同級生から年賀状が届くようになっていた。何事かと思っていたが、コンサートを開くから来て欲しいとか、Amazonで電子書籍を出したから買って欲しいというような案内がメールで届くようになっていました。
特にそういうのは興味無かったので、コンサートに行ったりとか電子書籍を買ったりとかしなかったのですが、昨日、ふと気になって余っていたAmazonポイントで電子書籍を買ってみました。99円でしたし。
で、表紙に書かれていましたから知っていましたが、その人は19歳の頃からの創価学会員だったそうですから、高校卒業後に入信したのでしょう。そしてまた離婚したことも書かれていました。
しかし本文を読まないと詳しいことは分からないので、ちょっと知りたいなとモヤモヤしていたのですが、昨日突然、先に書いたようにふと気になり買ってみたのです。まだ全部は読んでいませんが、気になっていたさわりの部分だけ読んでみましたが、離婚の原因は母親の介護の件でそれまで勤めていた教職を辞めたことを妻とその両親に理解されなかったということで離婚したということでした。
うーん、介護の仕事に就いている立場の人間から言えば、感情的には理解できなくもないけど、実際問題としては有り得ない選択だと思いました。
確かに親子の情としては、母親の最後を自分の手で一から十まで介護してあげたいと思う場合もあるかと思います。しかし介護をする為に仕事を辞めるということは、出来る限り避けたほうが良い、というか基本的にはやっちゃダメです。
幸いというか不幸にというか、元同級生の母親の介護は半年という短さで終わりましたが、本来、介護とは何年続くか分からないものです。ですから蓄えが有ろうがなかろうが、収入を絶ってまでするものじゃないです。自分の生活が出来ていなければ介護も出来ません。
ですから仕事は続けつつ、上手に介護保険や制度を使い母親の介護をすべきでした。もちろん介護保険や制度も完璧なものではありません。家族が思っているような介護をしてくれないというか出来ないケースも多いです。
ですから完璧を求める方は、今回の話題にしている元同級生のように自分で全部やってしまおうと考えてしまうかもしれませんが、そもそも世の中には完璧なものなど無いのです。
おそらく元同級生は創価学会という宗教に入った為に完璧を目指して修行しなければいけない、完璧を目指して実行しなければいけないという意識が強かったのでしょう。さらに言うなら教職という世間とはずれた社会常識を持っていたのでしょう。
ふつうの世間というか社会では、完璧を目指すのは良いけど、実際にはコストや人的物的な資源の制約もあり、完璧な水準の仕事は出来ないということが暗黙の了解事項になっているかと思います。
私も完璧に仕事をしたいという思いが若いころにはありましたが、完璧を求めると仕事は終わらないんですよね。適当なところで切り上げないといけない。とにかく形を作って終わらせないといけないのが仕事です。いや、仕事に限らずなんにしてもそうですね。
完璧主義ということを言う人は、仕事を終わらせられない人の言いわけに聞こえます。
とにかく、元同級生の完璧主義の犠牲になったその人の妻や子供たちは不幸でしたね。母親だけに愛情を注ぐのではなく、縁があった妻や子供たちにも同程度の愛情をなぜ注げなかったのかという感想を持ちました。
やっぱり理想を語る宗教や、現実ではなく理想を押し付けようという教育をする教職の人は良くないですね。
人生、完璧には行かないですよ。適当が一番です。正確に言うなら完璧を求めつつ現実的に適して当たっている『適当』なところで手を打つのが良いのかな。
そうしていけば少しずつ完璧に近づけられると思います。まあ、完璧にはなりませんけどね。
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