第二地球圏物語 前史
It is historical in front of The second Earth area story
妖精的日常生活 お兄ちゃんはフェアリーガール
作:紅衣北人 / ジャージレッド
第09話 コンタクト・コマンド
妖精世界に残された唯一の大国、秋津島。異星から来たとされる機械の侵略から辛うじて持ちこたえている妖精たちが住む国である。その秋津島の首都、皇都天那こうと・あまなに、女皇ディアナが住む宮殿がある。その宮殿に至急の報がもたらされた。
「それでは人間世界において、召喚魔法が発動されたというのですか? それは間違いないのですね」
「その通りです。ディアナ様。観測された召喚の規模そのものは極めて小さなものでしたが、その割に投入された魔力は膨大としか言いようがない量でした。おそらく魔法術式が未熟なせいか、非常に効率の悪い召喚魔法だったかと思われます。しかしそれにしても魔力投入量の膨大さは異常です」
女大魔導師と称される老齢の妖精、エラは言葉を続ける。
「おそらく人間世界ではキャンセラーに続き、何らかの形で魔法を機械的に強化増幅する手段が開発されたのではないでしょうか」
なんということであろうか。すでに妖精たちは加賀重工の【魔法研究所】で開発されたキャンセラーの存在を知っていたのである。
近衛騎士のアヒカルと妊娠初期の段階にあった滝沢汐海が相互換身召喚魔法によりお互いの体を交換し、妖精のアヒカルが人間の女性である滝沢汐海の体になり、人間の滝沢汐海が妖精のアヒカルの体になった。その目的は、大脱出計画を成功させる為に、長谷川珠美香とその兄のふたりと接触することであった。
しかしアヒカルと滝沢汐海とのチェンジリングが終了し、継続的にお互いの意思疎通を行うことができる体制を作り上げて二週間が過ぎた頃、人間世界側における思わぬ情報が妖精世界側にもたらされたのだった。
電子機器、機械から妖精への悪影響を中和する装置、キャンセラーの存在である。
滝沢汐海が妊娠初期段階の我が子を、元恋人、そして両親から堕胎するように強要されることから逃れてお腹の中の子を助ける為に、妖精のアヒカルからの召喚を受け入れて妖精化した後での話だが、汐海の両親の落ち込みようは半端ではなかった。
それまでの過干渉、過保護な状態から、一気に無関心放置状態になってしまったのだ。おそらくそれは今まで大事に育ててきた娘が妖精に召喚されて、イケメンではあるが浅黒いコウモリ羽の男の妖精に変わってしまったことを認めたくはない心の表れだったのかもしれない。
結果、滝沢汐海は妖精化した後、かなりの行動の自由を得た。まずは戸籍を妖精の男に変え、名前も海斗と変更した。そして手に入れたのが、現代における妖精の必需品、キャンセラーである。据え置き型のキャンセラーはもちろん、携帯用の腕輪型のキャンセラーも手に入れた。値段はそこそこするのだが、現代社会を生きる妖精にとってキャンセラーのような装置が無いと話にならないので、お金がもったいないと言ってはいられない。
その出費の大きさをアヒカルに愚痴ったのが、妖精世界側にキャンセラーの存在がもたらされた最初だった。
「はあ~~~。今日の出費は痛かったです。妖精用のグッズって、服もそうだけど、色々と高くて大変ですよ」
海斗(汐海)とアヒカルの魔力と心が作り出す夢幻界にて、ふたりは毎晩の会合を行っていた。
「おや、今日は何を買われたのですか。確か先日は妖精サイズの服や日用品でしたよね」
人間の女性となったアヒカルは、そのお腹を【意識的に】撫でながら、海斗に話しかける。そのお腹の中には新たな生命がいることを認識しているということを強調する為に。
「そうですよ。もともと妖精だったあなたたちは認識していないでしょうけど、妖精の肌って人間に比べて薄くて敏感でしょ。だから人間が普通に着るような服の生地だとゴワゴワして不快感がすごいというか、着れたものじゃないんですよ」
「ふうむ。しかし海斗さん、いや、汐海さんの人間の体もけっこう敏感だと思いますけどね」
「え? アヒカルさん、もしかして……」
「もしかして何ですか?」
「いえ、その、ひとりでしちゃったりとか……。いえ、べつに今はものその体はアヒカルさんのものですからいいんですけど、その、あんまり激しくしちゃうと、お腹の中の子に影響したりしないかなあって。ちょっと心配ですから……」
海斗は浅黒い顔を赤くして、もじもじと小さな声で話している。色々と焦っているようだ。
「いえ、自分ではしていないんですが、妊娠の状態を診断する為に……」
一方のアヒカルも、どこか言いにくそうな雰囲気だ。
「……為に?」
「人間化した医者にアソコを広げられて診察受けたり、触診されたりとかしまして、その時にこう、汐海さんの体って敏感だなあと、思ったので」
アヒカルはどこか遠い目をして斜め上のほうを向きながら、右手の人差指でほっぺたをポリポリと掻いている。
「そうですか。診察ですか。……なるほど、診察なら仕方ありませんよね」
「ええ、そうですね……」
ふたりの間に、妙な沈黙が横たわる。
「ゴホン、ええと、それでは話をもどしますけど、妖精の皮膚は人間に比べて敏感ですから、妖精用の服って人間用の服と比べて物が良いだけに値段が何倍も高いんですよ。少量生産ですし」
「そうですか、それは大変ですね。海斗さんが召喚魔法を使えるのであれば、私が着ていた服を差し上げることもできたのですが、残念です」
「え、そんなことができるんですか」
「ええ、自分が所有する物や所有権を譲ってもらったり、貸してもらった物、それから誰も所有権を主張していない物であれば、召喚魔法で手元に取り寄せることができるんですよ。逆に誰かが所有していたり所有権を主張しているような物は召喚できないんです」
「へええ、そうなんですか。何でも召喚できるというわけではないんですね」
「だから相互換身召喚、あなた方がチェンジリングと呼んでいる召喚の際も、同意として名前を伺いましたよね。そういうことです」
「なるほど、興味深いですね。……ああ、そうそう、今日は何を買ったのかという話でしたよね」
海斗は、ポンと手を打ち、話をそもそもの元に戻す。
「今日は、キャンセラーというものを買いました。現代社会は電子機器なしで生活するというのは、妖精だからとはいっても不可能ですからね。キャンセラーが開発されていて良かったですよ。これで機械からの悪影響も関係なしですから、長谷川珠美香さんとそのお兄さんを探しに旅立つことができます」
海斗は、その両の腕にはめられた腕輪型のキャンセラーをアヒカルに「ほらほらこれですよ」と言いながら示す。
「え、今、何て言いましたか?」
「だから、キャンセラーを買いましたから、これで長谷川珠美香さんとそのお兄さんを探しに旅立つことができると」
「いえ、その前です。機械からの悪影響も関係なしというのは、いったいどういうことなんですか!?」
アヒカルは、急に真剣そのものの表情になり、かつての自分の体をしている海斗を問い詰める。目が完全にマジであるので、ちょっと怖いかもしれない。
その後、あまり要領を得ない妖精初心者の海斗から話を聞き判明した事実は、妖精世界の妖精たちにとっては、それこそ驚天動地の内容であった。一晩の会合では伝えきれない情報とその内容に、いく晩もかけて会合が行われた。
最終的には海斗にもう一組、正副2個の腕輪型のキャンセラーと、その為のボタン電池を大量に購入してもらい、夢幻界において滝沢海斗(汐海)から妖精世界側の秋津島という国家そのものに所有権を譲渡。そしてキャンセラー及びボタン電池を、老女魔導師のエラが妖精世界に召喚することに成功。
かくして異世界の妖精たちは、人間世界で開発されたキャンセラーの機能と性能を知ることになった。
ちなみに海斗から聞き出したことによれば、妖精たちが相互換身召喚を始めてから約7年後には、キャンセラーの開発がスタートし、その後2年を経ずしてキャンセラーの原型が開発されたのだという。
参考までに以下に海斗が加賀重工のホームページから引っ張ってきた年表を記す。
2000年03月 妖精による召喚始まる。現代のチェンジリング事件。
2007年07月 加賀重工会長の孫娘、加賀詩衣那が妖精に召喚される。
2007年12月 【加賀重工航空機製作所開発部新技術研究班】設立。
2009年05月 電子機器の妖精への悪影響を中和するキャンセラーの原型が
開発される。
2010年04月 据え置き型キャンセラーが市販される。
2011年09月 妖精サイズの腕輪型キャンセラーが市販される。
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2014年04月 玉突き召喚事故と呼ばれる事例が発生。(詳細不明)
2015年05月 ← 今ここ。
妖精世界に異星からとされる機械群の侵略が始まってからすでに50年以上が経つが、機械たちから妖精への悪影響を中和するような手段が考案され、開発されたことは今までなかった。なのに人間たちは、妖精に召喚されだしてから10年にも満たない間に、キャンセラーという装置を開発して実用化してしまう。
滝沢海斗から所有権を譲渡されたキャンセラーを召喚し、実際に使用してみて妖精たちは感嘆した。『これが伝説の人間の本当の力か』と。キャンセラーは妖精世界においても機械からの悪影響を完全に中和することができたのである。
しかし残念なるかな、キャンセラーの有効半径はせいぜい数メートルというところであり、キャンセラーを装備した妖精が居ても、機械たちに有効な攻撃魔法を遠距離から放つことはできなかった。攻撃手段としてはキャンセラーは意味の無いものだったのだ。
さて、そういう経緯もあり冒頭の話に戻るのだが、人間世界において小規模ではあるが召喚魔法が発動されたことを観測した老女大魔導師のエラは、人間世界において、何らかの形で魔法を機械的に強化増幅する手段が開発されたのだろうと推測したのだ。
「それではエラ殿、今後、私たちはどうすればよいのであろうか」
魔法を強化増幅する装置が人間世界で開発された可能性があると聞いたディアナ女皇は、しばし思案した後に質問をした。
「はい、正式には後ほど開く御前会議にて決定をしたいと思いますが、やるべきことの基本は変わりません。滝沢汐海嬢、改め滝沢海斗さんには、長谷川珠美香さんとその兄と接触してもらいます。そして珠美香さんが、その兄に対して同調・共鳴能力を発揮できるように、海斗さんを通じて我々が指導するのが第一の目標です。その際に人間世界で開発されたであろう魔法を強化増幅できる装置を併用できれば、大脱出計画の達成も早まるかと」
その後、御前会議前の打ち合わせということで、ふたりは長く語り合ったのだが、もしも魔法を強化増幅できる装置を使えるのなら、珠美香が同調・共鳴能力を発揮する役に立つのではないかということが確認された。
その為に海斗に目指してもらう地は、妖精世界では皇都天那が存在する場所に相当する場所にある都市、名古屋であった。
そこにはキャンセラーを開発した魔法研究所と呼ばれる【加賀重工航空機製作所開発部新技術研究班】が存在していた。何よりも玉突き召喚事故が起きた地でもあるという。
人間世界の報道ではプライバシー保護ということもあり、玉突き召喚事故によって少年化した少女と、妖精少女化した少年の実名は公開されてはいない。ただ、その事故が名古屋という地方都市で起きたということだけが公開されていたのだ。
「わかりました。それでは滝沢海斗さんの準備が万全となり次第、名古屋の地へ向けて出発させてください」
女皇ディアナは、それ以外の命令を出すことがあり得ないと知りつつも、そのように言うしかない自分に小さな嫌悪感を覚える。しかしそのような感情は心の奥底に押し込めた。たった一人の人間と、国民すべてを天秤にかけること自体がナンセンスであったからだ。
「御意のままに」
こうして滝沢海斗は、自宅のある北海道は札幌市から、本州は愛知県名古屋市へと旅立つことになった。いかに交通網が発達しているとはいえ、妖精の身としてははるか彼方の地である。どんな危険が待ち構えているのか、今はまだ分からなかった。
そして旅立ちの前日、アヒカルと海斗は今晩も夢幻界にて会合を持っていた。
「アヒカルさん、今までありがとうございました。どうやら私にも魔法が使えるようになってきたのは、アヒカルさんのおかげです」
海斗は、体にピッタリとしたジーパンとTシャツ、それにジージャンという姿で背中からコウモリのような羽を伸ばし、アヒカルの顔の前に浮かんでいる。
「いえ、海斗さんの頑張りのたまものですよ。あなた方が攻撃魔法と呼んでいる炎や氷、風や電撃を生み出す魔法、物を作り出す創造魔法と呼んでいるもの、そして広い意味では飛行魔法や障壁魔法も召喚魔法です。その基本を理解していれば、もう後は実践あるのみ。教えることはもう何もありません」
すでに説明したように、妖精が使う攻撃魔法は、別な場所から炎や氷などを召喚し、相手にぶつけるものである。その炎や氷そして電撃や風は、同一世界の別な場所からの場合もあるし、場合によっては多元世界のどこかひとつ、簡単な表現をするのなら異世界から召喚されたものかもしれない。
物を作り出す創造魔法も、例えば鉄の剣を作る場合を考えると、鉄を原子単位で召喚し、召喚した原子を3Dプリンターがするのと同じように、剣の形に並べて作り出すというもので、基本はやはり召喚魔法である。
ちょっと分かりにくいのが飛行魔法であるが、極めて小規模かつ連続的に前方の空間を召喚し続けて、飛行方向に際限なく落ちていくというのが飛行魔法である。その場に滞空し続けるホバリングは、重力に引かれて落ちる速度に合わせて上方の空間を召喚し続け、結果的にその場に留まるものである。
その飛行魔法の結果として実現されるのが障壁魔法である。実際には障壁などできていないのであるが、飛行時に空間そのものを召喚して移動しているので、飛行時の風の影響は最初から無いのだ。結果的に飛行時に障壁ができて風の影響を排除しているように見えているだけに過ぎない。
ただし、実際に障壁魔法と呼ばれているものは存在する。物理的に盾となる物を召喚し、相手からの攻撃を防御するというもので、エネルギーシールドとか、バリアとかいうものとは異なる。
このあたりが加賀重工の魔法研究所で考えられ仮説を立てられている魔法の理解と異なるのであるが、それを以ってして魔法研究所を否定することはできない。まずは間違っていても良いから仮説を立てるのが科学的な理解の第一歩だからだ。
「それでは明日、目覚めたらそのまま名古屋へと旅立ちます。必ずや長谷川珠美香さんとそのお兄さんと接触して見せます。ですから、アヒカルさんも、頼みます。私の赤ちゃんのこと、本当にお願いしますね」
「ありがとうございます。もちろん、お腹の赤ちゃんのことは無事に産んで見せますよ。最近では、私にも母性というものが出てきたのでしょうか。赤ちゃんのことが愛おしくてしかたないんですよ」
とても良い笑顔を浮かべながらそういうアヒカルであったが、真っ赤な嘘である。アヒカル自身にはまだ自分が妊娠しているという自覚すらない。妖精とはいえ、つい1ヶ月ほど前までは男だったのであるから、母性などカケラほどもあれば良いほうである。単に人間世界における手駒である海斗を自由に操るための手段として、お腹の中の子を大事にしているというポーズを取っているに過ぎない。
「そうですか。良かった。アヒカルさんが良い人、というか妖精で。私、嬉しかったんですよ。あの日、アヒカルさんからの召喚の話を聞いて、『ああ、これでお腹の中の子を助けることができる』って思ったんです」
「助けられるのはこちらもですから、お互い様ですよ。それよりも海斗さん、ちょっと直して欲しいところがあるのですが、良いですか」
「あら、なんでしょう?」
「いや、たいしたことではないのですが、言葉遣いや態度をもう少し男性的にして頂けませんか? どうにも元の私の体がなよなよっと、しゃべったりするのを見ているのが耐えられなくなってきたのですが。いかがでしょう」
これはアヒカルの完全に自分の都合である。妖精世界側の大脱出計画には何の関係も無い。
「ああ、ごめんなさい。そういえばそうですね。では、お互いに言葉遣いや態度を直すということにしませんか。というか、し、しようぜ」
海斗は、あからさまに不自然な言い直しをする。
「え? お互いに……、ですか?」
アヒカルは虚をつかれたような感じである。
「それはそうですよ。じゃない、それはそうだ、ぜ。だって、赤ちゃんが言葉を覚えるのは、お母さんの言葉を真似するとこからなんですよ。……なんだぜ。もしもお母さんが変な言葉遣いをしていたら、赤ちゃんが変な言葉を覚えちゃうでしょ、だろ?」
拙いながらも男言葉を喋ろうと努力する海斗。
「そうか。そうですわね。失礼しました。じゃあ、私も、もっと女らしい言葉を喋るように致します。でもどうなんでしょう? 女らしい言葉って、どうすれば良いかあまり分かりませんわ」
対するアヒカルも不自然ながら、女らしい喋り方、トーンにしようと努力している。本音としては、『何を言ってやがるんだ、バカ野郎』というところなのだが、目の前にいる元の自分の体をした滝沢汐海改め海斗が、大脱出計画成功のカギを握っており、妖精世界に生きる妖精たちや元妖精の人間たちすべての命運を握っているのだと思うと、海斗の機嫌を損ねることは破滅を意味していた。
妖精世界を救う為なら、女らしくすることの羞恥心など何ほどのものかという意識だ。
「いや、結構いけてると思う、ぜ。ふう、じゃあ、お、俺はもう寝るから。明日は早朝から旅立つ予定だからな」
「確かに明日は早いですから、早めのお休みしないといけませんわね。それでは今日はもうこれで終わりにいたしましょうか?」
「お、おう。じゃあおやすみ、アヒカルさん」
「はい、おやすみなさい。海斗さん、明日は気をつけて出発してくださいね」
戸惑い混じりのふたりの会話が終わると、ふたりの魔力と心が作り出していた夢幻界が霧散し始める。そして海斗はそのまま眠りの中へと落ちていき、一方のアヒカルは海斗とは逆に覚醒段階が上がっていき、薄暗い魔導炉の中で目覚めたのを確認した。
立体的に配置された無数の宝石が安置された3畳ほどのドーム状の部屋。それこそが妖精世界の妖精たちが魔力を増幅する為に作り上げた魔導炉である。古来より宝石は魔力を吸収および放出しやすい性質を持つ。アヒカルは魔導炉に配置された宝石から放出される魔力の助けを得て、人間世界の滝沢海斗とのコンタクトを取っていたのである。
ちなみに妖精が自分の魂と波動を同一とする人間と相互換身召喚、いわゆるチェンジリングをするために使われている施設でもあるのが、魔導炉である。
魔導炉の中で覚醒したアヒカルは、身を屈めないと出入りできないような小さな扉から外に出た。
そして、魔導炉の外壁を、ドンッと叩きつけた。
「荒れてますね、アヒカルさん」
声をかけてきたのはエルフィンであった。ストレートな黒髪が腰まである人間の少女の姿をしている。すでに人間化して1年が経つエルフィンの動作からは妖精らしいせかせかとした動きが消え、非常に落ち着いたものになっている。
「こ、これは姫様。どうしてエルフィン様のような方がこのようなところにいらっしゃるのですか」
「来てはいけませんか?」
「いえ、そんなことはありません。ただ、お見苦しいところを見せてしまいました」
「もしかして、滝沢海斗様を利用しているだけの立場にイラついていらっしゃるのですか?」
エルフィンはやさしく微笑む。
「いえ、そんなことは有りません。私は皇国、秋津島の軍人として……」
アヒカルは自分に言い聞かせるようにゆっくりと話し出したが、ついっと近寄って来たエルフィンの人差指にその唇を塞がれた。
「今のあなたは、お母さんです。そのお腹の中にいる子供は、海斗さんに対する人質なのかもしれません。ですが同時に、私たちすべての希望の子供でもあるのですよ。それを忘れないでください」
「……」
「お母さんの仕事はただひとつ。元気な赤ちゃんを産むことだけを考えてください。それが海斗さんを私たちの目的である大脱出計画の為に動かすことができ、ひいては私たちすべてを機械たちの侵略から救うことができるのですよ。だからアヒカルさん、頑張ってください。お母さんとして」
そしてエルフィンの右手の人差指は、アヒカルの唇を離れ、右手はアヒカルの下腹部へと滑るように動いたかと思うと、やさしくその腹を撫でたのだった。
「エ、エルフィン様!?」
「ここにいる子供は、私たち妖精世界に生きる者すべてを救うきっかけを作ってくれた子供です。大事にしましょう。たとえ海斗さんとの約束が無くても、無事に産んであげるのが私たちの大事な仕事ではないですか?」
思わぬ展開に焦るアヒカルであったが、やさしい表情を崩さないエルフィンの顔を見ているうちに、先ほどまでのささくれた心が癒されてくるのを感じていた。
「……ふう。そうですわね。私がイライラしていては、赤ちゃんも困っちゃいますわよね」
そのどこか不自然な女言葉を喋るアヒカルを見て、エルフィンは、『これは海斗さんとの会合で何かあったな』とピンときた。
「そうそう、それじゃあ、一緒にお風呂に入りましょうか。人間たち、とくに日本人は毎日お風呂に入らないと生きていけない民族らしいですからね。私たちもそれにならわないと、この体の健康にも影響しちゃいますからね。というわけで、お伴してくださいね、アヒカルさん」
エルフィンはアヒカルの手を取り、王宮の奥に作られた人間サイズの風呂がある場所へと歩き出した。
「ちょ、え、あの、エルフィン様! 私は防衛大臣ティプファンが息子、黒き翼と爪のアヒカルですよ。男だったんですよ。そんな私が、姫様とお、お風呂を一緒にするなんて、できるわけがありません!」
「でも、今はお母さんですよね。大丈夫、大丈夫。だれも文句は言いませんよ。さあ、アヒカルさん。いえ、アヒカルお姉さま、行きましょう♪」
その後、妊娠して乳が通常サイズよりも大きくなってきたアヒカルの胸を見て、エルフィンが落ち込むのは別の話であった。
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